箴言集

このコーナーでは、好きな言葉、気になる言葉、思わずうなずいちゃう言葉、目から鱗のことば……等々を、折々に取り上げたいと思います。

 

<このページでご紹介している言葉>

■目覚めるとは目覚めるべき人など誰もいないことを知る事です(シュリ・アンマ・バガヴァン)
■信念は嘘よりも危険な真実の敵である(フリードリヒ・ニーチェ) & 正義の反対は悪じゃない(野原ひろし)
■わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか(イエス・キリスト)
■無理しても頑張る(蜷川実花)
■起きていることはすべて正しい(勝間和代)

 

起きていることはすべて正しい(勝間和代)

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前回の蜷川実花さんにつづき、今回もスピリチュアル畑以外の人の言葉から。

勝間和代さんは実業、経済系の評論家としてとても有名な人だし、今回取り上げる言葉の元となった『起きていることはすべて正しい』も評判になった本だから、ご存知の方も多いでしょう。

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ぼくは、この本は読んでいないので、内容については正確なことは知りません。
だから、以下に書くのは本の内容とは関係なく、タイトルの言葉からぼくがインスパイアされた内容である旨、ご了承ください。

『起きていることはすべて正しい』と言われて、もしかしたら「正しい」という単語に反発を感じる人もいるかもしれません。
正しい/間違っている、という具合にものごとをジャッジするのは妥当ではない──というように。

ぼくは、ここでは「正しい」という言葉を「道理にかなっている」という意味合いで受け止めたいと思います。
要するに「起きていることは、すべて道理にかなっている」、逆に言うなら「道理にかなっていないことは起きない」ということです。

なぜ、この言葉に価値があるかというと、ぼくたちはしばしば起きていることについて嘆いたり、怒ったりしがちだからです。
そればかりか、それを引き起こしている人に対して嘆いたり、怒ったりまでする……。

どうしてそういう反応が出てくるかといえば、何かついて「こうあってほしい」とか「こうあるべきだ」という期待や固定観念があったからでしょう。
でも、もしそれが起きていることと違うのであれば、自分の期待や固定観念が道理にかなっていなかったのかもしれません。

だから、この言葉はむしろ自分の中にあった無意識のジャッジに気づく謙虚さを示唆しているのだと思います。

さらに言うなら、自分にとって「正しくないこと」や「正しくない人」に遭遇したときには、自分のなかにある「道理にかなっていない」部分に気づかせてくれるチャンスかもしれない──そのことを知っておきたいと思います。

最後にこれと関連して、ぼくが好きなスティーブン・コヴィー『7つの習慣』から、アメリカ海軍でじっさいにあった逸話をひとつご紹介しておきましょう。

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訓練艦隊に属する戦艦が、悪天候のなか数日間にわたり航海をつづけていた。

暗くなってから間もなく、ブリッジの見張りがつぎのように報告した。
「進路に光が見えます」
「停止しているのか、動いているのか」と艦長。
見張りの答えは、「停止しています、艦長」

つまり、その船はこちらの進路上にあり、衝突の危険があるということだった。
艦長は信号係に命じた。
「その船に対し、信号を出せ。衝突の危険があるため、20度進路を変更せよ、と」
相手からの信号が返ってきた。
「そちらのほうが20度進路を変えるよう助言する」

艦長はふたたび命令した。
「信号を送れ。私は艦長だ。20度進路を変えるように」
すると
「こちらは2等航海士だ。そちらのほうこそ20度進路を変えるように命令する」
と返事が返ってきた。

艦長は怒り出し、
「信号を送れ。こちらは戦艦だ。20度進路を変えろ」と叫んだ。
点滅する光の信号が返ってきた。
「こちらは灯台である」

われわれは進路を変えた。

 

 

       ◇       ◇       ◇ 

 

無理しても頑張る(蜷川実花)

この言葉を、こちらで取り上げようかどうしようか、ちょっと迷いました。
発言の主は聖人、偉人とは違う系統の方ですし、「無理」とか「頑張る」というのも、道を行くうえでは慎むべきこととされることが少なくないですから。

あ、ちなみに、蜷川実花さんはぼくの大好きな写真家さん。
映画『ヘルター・スケルター』ではメガホンも取られました。
お父さんは演劇界の大御所だった故・蜷川幸雄さん。

ちなみに、この方の名言には「子持ちだし、バツ3だし、蜷川実花だし、父は蜷川幸雄だし、経済力もネームバリューもある。モテるという角度から見たらそもそもマイナスポイントが多すぎる」というのもあります(笑)

今回取り上げた言葉は先日、朝日新聞求人欄の「仕事力」というインタビュー記事で見かけたものです。
毎週日曜日、1ヶ月間の短期連載にて、各界で活躍している方がご自分の仕事観について語るというものです。
求人欄の一部になっているくらいだから、自分の生き方や道を見直している最中の人たちに向けて……、という趣旨のコーナーなのでしょう。

で、蜷川さんの第1回目の記事が「仕事は、無理を承知の上で無理をするからできるんだと思うんです」という言葉で結ばれているのです。

その言葉じたいは、彼女が美大には行ったものの、いわゆる「美術」の世界では道が見いだせないことを悟ったのち、中学のころから大好きだった写真に活路をみつけて、けっきょくは独学でその世界に進んだ──という経歴に添えて語られたものです。

でも、おそらくは商業写真や商業映画の常として、予算やスポンサーや業界のしがらみや、あれこれうるさい評論家たちとすったもんだしながら仕事をせざるを得ないことも多い──そんな彼女が、読者のみなさんに向けた激励の一言であるような気がします。

冒頭にも書いたとおり、「無理」とか「頑張る」というのは、道を行くうえではしばしば慎むべきこととされます。

「無理」は「理(ことわり)」を無視すること。
「頑張る」というのは「我を張る」こと。
──だから。

でも、彼女はそんなことは百も承知なんです。
別のインタビューでは「相当ハードに命がけでやっても、無理なものは無理なんです」ということも語っています。

でもでも、やっぱり別のインタビューで「頑張ります、っていうのも苦手。頑張るのなんて当たり前じゃん? すべてはそこからだと思ってるの」とも語っているのです。

このあたりのことは、ほんとうに何かを頑張ってやって、それで何かを成し遂げた人ならきっとお解りになるはずです。

何かをやろうとして壁に当たる。
かんたんに壁を突破できるのなら、それでいいんです。
でも、そうはいかなかったら……?
自分が成長するか、あるいは何かを変えないといけないんです。

そこで、小さな自分の殻が破れるんです。

そうしたら、それまで「無理」だと思っていたのは、ただの自分の「理屈」にすぎず、頑張らなければいけないと思っていたのは「小さな自分」だったということに気がつくのです。

蜷川実加さんはほかにも素敵な言葉をいっぱい残していて、あともうひとつご紹介しておきたい言葉があったのですが……。

たしか、「蜷川実加の最大の敵は‘蜷川実加’」だったか、「いちばん気をつけなければいけないのは‘蜷川実加’のマネをしないこと」だったか……。
その言葉を目にしたときのメモが見当たらず(泣)

要は、彼女ほど成功をすると、うまくいくやり方だとか、みんなが求めているであろうことが大体わかるから、それにしたがうことが手っ取り早くて確実なはずなんです。

でも、そうしていたら、だんだん劣化していくんです。
「感動」というのは、観る人の想定を超えたときに起こること。
かつての「感動」をなぞってしまったなら、想定を超えることはできないのです。

それは芸術だけの話ではない──ぼくは自分自身の人生についても、つねにそのことに気をつけたいと思っています。

 

     ◇       ◇       ◇ 

 

わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか
(イエス・キリスト)

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イエス・キリストが十字架にかけられて天に召される──彼の物語のクライマックスであるにもかかわらず、それを伝える弟子たちの言葉は微妙に異なります。

『マタイによる福音書』では──
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。
そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。
ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。

『ルカによる福音書』では──
時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。
そして聖所の幕がまん中から裂けた。
そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。

『ヨハネによる福音書』では──
さて、イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリヤとが、たたずんでいた。
イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。
それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。
そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。
そこに、酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した。
すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。

 

並べてみるなら、やはり『マタイによる福音書』に圧倒なリアリティを感じることは皆の一致するところでしょう。

ちなみに、『マルコによる福音書』も『マタイによる福音書』とほぼ同じです。

けれども、だとしたらその言葉をどう解釈するか──なかなかむずかしいところです。
ルカ伝のように「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」くらいのセリフであれば、はるかに解りやすいのに……。

 

聖書学者たちのあいだでは、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」というのは旧約聖書詩篇の一節を唱えたものだろうとの説が有力みたいです。

旧約聖書詩篇にはたしかにそのようなくだりがあります。
苦難の道を歩みつづけたヘブライの民の嘆きを表したものでしょう。

——————————
私たちは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と訴えずにはいられない苦難の道を歩んでいる。
けれども、それはある種の供儀のようなものだ。
自然の恵みを得るためにはいけにえを捧げることが必要なのと同様に、私たちが受けている苦しみは、神とつながるために必要な犠牲なのだ。
神よ、どうかそんな私たちのことを心にとめてください。
——————————

そのような趣旨だと思います。

詩篇にはそのしばらく後に「ヒソプをもって、わたしを清めてください」という一節があり、ヨハネが「聖書が全うされるため」と書いたのはそのことと思われます。

つまり、ヨハネはたしかに「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」という言葉を聞いたけれど、イエス最期の言葉として取りあげるのは誤解を招きかねないのであえてそこをぼかして、その趣旨を暗示するために「聖書」と「ヒソップ」というキーワードだけを残したのではないでしょうか。

おそらくルカは、はじめから誤解されることのないように、あえてイエスの意を汲んだ言葉に書き直したのだと思います。

じっさいにマタイ伝では、イエスの言葉を聞き取れなかった人たちが「エリヤ」と取り違えて混乱している様子が伝えられています。

 

いずれにせよ、この言葉をどのように解釈するか──そこで、イエスという存在について、キリスト教という宗教について、神について、昇天(アセンション)について、その人がどのように理解をしているかが問われます。

ぼくはキリスト教徒でも聖書学者でもないので、勝手な解釈を書かせてもらうなら──
シフトとは、「自分が信じる拠り所」とか「○○は~のはずである」とか「最高の価値基準」とか「絶対的な何か」とか、そういうものを超えること……、そんな風に思っています。

 

     ◇       ◇       ◇ 

 

信念は嘘よりも危険な真実の敵である(フリードリヒ・ニーチェ)

正義の反対は悪じゃない。正義の反対は‘また別の正義’なんだ
(野原ひろし)

信念を持つことのできる人は幸せです。
そして、たいていの場合、信念を持っている人は強いです。

けれども、信念はしばしば独善的です。
そして、柔軟性に欠けます。

信念は、他の視点や可能性を排除します。

他の視点や可能性を配慮していたら、信念を持つことはできないから。
戦う人は、みんな信念にもとづいて戦うのです。

 

同じ趣旨の名言になりますが、クレヨンしんちゃんのお父さん、野原ひろしの名言として知られる言葉に、「正義の反対は悪じゃない。正義の反対は‘また別の正義’なんだ」というセリフがあります。

これについては好事家のあいだで、出典が見当たらないとか、いや映画版にそのセリフはあるけれど、あるゲームソフトからのパクリだとか議論されているみたいですが、その言葉じたいはニーチェの箴言と対になる名言だと思います。

野原ひろし

 

「信念」も「正義」と同様、それを掲げる本人の気持ちを高揚はさせるでしょうが、たぶん最終的な解決策にはなりません。

では、ニーチェや野原ひろしは、信念や正義に身をまかせる代わりにどのような生き方をしたのでしょうか?

もちろん、彼らは直接はそれを語ってはいないはずです。
なぜなら、語ってしまうと、それじたいが信念や正義になってしまうから。

でも、その言動を見れば、何かしらのヒントが伝わってくるような気がします。

ぼくは、ニーチェであれば狂気に満ちた霊感、野原ひろしであれば現実世界を生き延びていくしたたかなユーモア精神にそれを感じます。

風狂と諧謔は、多くの禅僧の辿る道でもあります。

 

     ◇       ◇       ◇ 

 

目覚めるとは目覚めるべき人など誰もいないことを知る事です
(シュリ・アンマ・バガヴァン)

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「シュリ・アンマ・バガヴァン」というのは固有名詞ではなく尊称であり、じっさいにこの言葉を語ったのはディクシャを広めたカルキの奥さんとされます。

ここでは彼女を慕う人たちにしたがって、その尊称のままご紹介をします。

さて、「目覚めるとは目覚めるべき人など誰もいないことを知る事です」──たしかにその言葉は真実でしょう。

非二元(ノンデュアリティ)を説く多くの先生方も、よく同じようなことを言います。

でも注意が必要です。
「目覚めるべき人など誰もいない」と思っている人が目覚めた人だとは限らないのです。
ちょうど、「犬が動物」だからといって、「動物が犬」とは限らないのと同じように。

ここで言われているのは、分離あるいは分別(ふんべつ)のことです。

分別というと、一般には「ものの道理をわきまえていること」であり、よいことだと言われているけれど、仏教では逆にこれが煩悩の原因だとされます。

たとえば、「敵」と「味方」。
争いごとの渦中にいるとき、人はそれを意識します。

でも、ほんとうは敵も味方もいません。
ただ、いろいろな人がいるだけです。
他人を敵と味方に分けているのは、争いの渦中にいる当事者だけです。

ここでは分かりやすく敵と味方と言いましたが、人が何かを見るときには多くの場合、無意識のうちにこのような区分けをしている……。
それが「分別」です。

では、他人を敵や味方に分けるという見方をしてはいけないのか?

──もしそうなら、サッカーも剣道もトランプも将棋もできなくなるでしょう。

つまり、分別は煩悩の原因であると同時に、人生を豊かにするだいじな道具ともなるのです。

さらに同じように、「目覚めるべき人など誰もいない」ということは真実であると同時に、でもやっぱり「目覚める」という体験はたしかにあるのです。